【NPB】プロ野球ハズレ助っ人外国人選手一覧 個人的判断

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スポーツ

日本プロ野球において、かなりの重点を置いている「助っ人外国人選手」。

野球ファンの皆さんもシーズン中やオフシーズン中、かなりのネタを提供してくれる人たちに皆注目していることでしょう。

来年優勝いけるわ、みたいな感じにです。

しかし、すべてが良い報告に動くわけもなく、色々とネタを提供してくれる人たちでもあります。

基本的に、自分の国を出て異国の土地で戦うこの方々を私は心から敬意を表しております。

けれども、全員がそう思えないという例を紹介していきます。

ブラッド・ペニー

契約球団年棒ポジション日本通算成績
福岡ソフトバンクホークス年俸2億2500万円(推定)投手1試合 3回1/3 0勝1敗 防御率10.80

1996年のドラフトでダイヤモンドバックスに5位指名(全体155位)されプロの世界に入る。2000年にマーリンズでメジャー昇格を果たし、2012年までの間ドジャース、タイガースなどを渡り歩き、最多勝を獲得するなど先発投手として活躍。メジャー通算119勝と前例のない触れ込みでソフトバンクが年俸2億2500万円で獲得した。なおMLB最多勝投手がNPBで投手としてプレーするのは史上初。

2012年当時のソフトバンクはD.J.ホールトンと杉内俊哉が読売ジャイアンツへ、和田毅がボルティモア・オリオールズに相次いで移籍するなど先発の表ローテーションが全滅。先発投手の補強が急務で球団はペニーに大いに期待した。

本人も「勝つために日本に来た」と意気込みを語った。

しかし、初登板となった4月4日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、雪が降るKスタになぜか半袖で登板したペニーは、3回1/3を6失点(自責4)5盗塁と炎上し降板すると、寒い中半袖で投げたため故障でもしたのか肩の痛みを訴えて早くも登録抹消。

直後の検査で異常なしと診断されたがなぜか帰国、アメリカで再検査を受けるもやはり異常なしと診断される。

余談だが、検査で帰国したはずのペニーは帰国中にポニーと戯れる自身の写真をTwitterにアップ。日本のファンからの顰蹙を買う。
結局再来日したがロクに練習へ参加せず、本人が退団を希望したため5月8日に退団が発表。

契約不履行7000万のみではあったが、給料だけ貰って日本でのキャリアを終えた。

その後、10日後にジャイアンツとマイナー契約を結び、6月にメジャー復帰を果たす。22試合に登板しジャイアンツの世界一に貢献。リングを獲得。

以降は、2013年は無所属→2014年からカンザスシティ・ロイヤルズ(マイナー契約、3ヶ月で放出)→マイアミ・マーリンズ(マイナーで2勝2敗、8月のメジャー昇格から8試合2勝1敗で切り抜けるが、10月末に放出)→シカゴ・ホワイトソックス(2015年にマイナー契約。11月に自由契約)→トロント・ブルージェイズ(2015年末にマイナー契約)→2016年3月18日に現役引退。

対談後わずか3か月の在籍だったソフトバンク時代について、退団直後にはTwitterで堂々と「アメリカに戻れて最高だ!」と発言したり、インタビューにおいて「2年くらいやれるかと思ったが甘かった。全く楽しくなかった」と答えるなど否定的な発言を繰り返していたが、2014年には一転して「怪我をしなければ今も日本でプレーしていたかも。日本は楽しかったし福岡はいい街だ」と語っている。

なお、ソフトバンクはでは、退団の申し入れを認める条件として、今後日本の他球団でプレーしないことを明記した文書を交わしていたため、その後日本でプレーすることはなかった。だが、この条件がなかったとして契約していたかは不明。

個人的に、NPBを馬鹿にしている印象を受けたので名前を挙げました。

ケビン・ミッチェル

契約球団年棒ポジション日本通算成績
福岡ダイエーホークス年俸4億円(推定)外野手37試合 149打数39安打 8本塁打 28打点 0盗塁
打率.300 出塁率.389 長打率.531 OPS.920

1984年にメッツでメジャーデビュー。

パドレス、ジャイアンツと渡り歩く中レッズ在籍時には1994年にはストライキで短いシーズンながら打率.326、30本塁打を記録。
1995年、推定年俸4億円を提示したダイエーに入団。

アメリカでも評判の素行の悪さだったがそれを覚悟しての獲得だった。

1995年4月1日の西武との開幕戦に「4番・左翼」で先発出場。

初回無死満塁の場面で郭泰源から本塁打を放ち、1983年の駒田徳広以来史上2人目の初打席満塁本塁打(開幕戦に限れば史上初)の衝撃的なデビューを飾る。

しかし4月14日の近鉄戦ではスタメンに名を連ねながら、試合直前に「熱がある」と言って突然の欠場。

翌日は飛球を追った際に「古傷の右膝を痛めた」と言って途中交代。

5月11日に雁の巣での練習を欠席すると、右膝痛を理由に直後の東京遠征をキャンセル。球団の指示に従って病院に行き「スポーツには支障がない」と診断されるも「アメリカの主治医に治療法を聞いてみたい」と言い残して5月26日に無断帰国。

球団は解雇の方向性だったが、年俸の問題からか7月21日に再来日。

当日22時に予定していた記者会見は「疲れたから」とすっぽかした。

また、復帰すると「チームがまさかこんな状態(5位)になっているとは思わなかった」と発言。

7月29日の西武戦に出場して5打数4安打、8月8日までに33打数15安打・2本塁打・9打点を記録するが、また「右膝が痛い」と言い始め、8月11日に2度目の無断帰国。その際「2週間で帰ってくる」と言い残したが、球団も完全に見切りをつけていてそのまま解雇となった。

再度無断帰国したため即刻解雇された。
退団後のミッチェルだが年俸が全額支払いにならなかったことが不満で裁判まで引き起こし、東スポなどに「金と共に去りぬ」と揶揄される。

1998年に引退後、2度も逮捕されている。

ちなみに、このミッチェル騒動がきっかけで球団はしばらくの間、実績ある大物よりも比較的低年俸で扱いやすい外国人選手を獲得する傾向にシフトしたとされる。

単純に素行が悪い選手ですね。

無断帰国はアウトです。

マイク・グリーンウェル

契約球団年棒ポジション日本通算成績
阪神タイガース年俸200万ドルの3年契約外野手7試合 26打数6安打 0本塁打 5打点 0盗塁
打率.231 出塁率.310 長打率.346 OPS.656

1996年オフ、レッドソックスでの活躍から「ボストンの英雄」とまで呼ばれていた、グリーンウェルは高額年俸がネックとなり、レッドソックスとの契約を更新することができないまま12月を迎え、NPBに売り込みをかけていた。近鉄、西武、阪神が獲得レースに参戦。

ちなみに、グリーンウェルの代理人を務めていたジョー・スロバは過去に、上述のケビン・ミッチェルの代理人も担当していた人物。

近鉄は獲得を断念。当初は西武と契約寸前まで交渉が進んだが、阪神が好条件を提示して逆転獲得に成功。阪神は長期低迷から脱却すべく、チームの中心となる新戦力の補強を目指していたが、清原・広沢の獲得に失敗。これにより、それまでは「強力な外国人選手は欲しいが、中心選手は日本人が良い」という構想を描いていた吉田監督も「今の阪神を変えられる実力を持った外国人を獲得したい」と方針転換し、グリーンウェルを獲得することとなった。

阪神は住居として家賃150万円の高級マンションを提供するも、グリーンウェル側から「狭い」と苦情を入れられてしまう。

機嫌を損ねられては困る阪神は2部屋を借り、壁を取っ払う工事を行なった結果家賃300万円+工事費用を負担。また、同時に2月からのキャンプを途中で離脱できる条項も付け加え、さらに、当時6文字しか表示できなかった甲子園の電光掲示板にも改良を施した。

翌1997年1月29日に来日、テンガロンハット・ウエスタンブーツ姿で関西空港へ到着。

春季キャンプ開始(2月1日)には間に合ったものの、2月11日に「副業(牧場と遊園地経営)の事務処理」「夫人との結婚記念日」を理由にキャンプを離脱。オープン戦中を見据えていた復帰予定は、直前に代理人から「キャンプ中に背中を故障したため、主治医から来日を控えるよう言われた」と連絡が入り順延。以後は「主治医にしっかり診察してもらいたい」「徹底してリハビリを行う必要がある」と主張するグリーンウェル側と、「チームドクターが軽症と診断している」「早々に合流して欲しい」と主張する阪神側の間で揉めたために遅延が続き、来日したのは4月30日。

その後5月の2試合で活躍を見せた一方、練習態度は不真面目で、打撃も成績が残せず、守備も肩も悪く、阪神ファンを失望させつつあった。

7試合目の出場で自打球により骨折。

グリーンウェルは、その時点では「骨折よりもスイングが問題だろう」と思っていた節があり、東京都内の病院で患部を検査しても異常は見られなかったため、翌5月11日の試合にも強行出場した。しかし、この試合は4打数1安打に終わり、結果的に日本での最後の出場となった。そして、再来日からわずか2週間ほどの5月14日に「野球をやめろという神のお告げ」との迷言を残して電撃退団・引退を発表したが、この文言があまりにも衝撃的だったことから、阪神ファンを始めとする野球ファンからバッシングを受けた。ただし、当時の会見では「阪神ファンに申し訳ないけれど、いい球団で最後にプレー出来て嬉しい」「野球は金のためじゃなく名誉のためやっている」との言葉も残しており、決して周囲やNPBを馬鹿にしているわけではなかった。

グリーンウェルは未だに「NPB史上最低の助っ人」として伝説となっている。

引退後、「農場を経営する」「これからは家族のために頑張る」等と話していた。その後はフロリダに甲子園球場の20倍もの広大な「マイク・グリーンウェルズ・ファミリー・ファン・パーク」という遊園地を建設し、オーナーとなっていたが、後年に(日本円にして)2億円以上で売却し、2019年現在は大規模牧場を経営している。

また2005年には、ステロイド剤の使用を告白したホセ・カンセコに対して「彼のせいで、1988年に自分がMVPになれなかった」と非難し、「ステロイド使用の選手はMVPから除外すべきだ」等と主張した記事で久々に日本のメディアに登場した。

2006年はNASCARのレーサーとなり、クラフツマン・トラック・シリーズにグリーンライツレーシングの一員として2戦に参戦した。

2008年2月25日、ボストン・レッドソックスのチーム殿堂入りが発表された。

グリーンウェルに関しては、単純に驚きの感情のみです。

まさかそのまま引退とはという印象です。誰が予想出来たのか。

ただ、この文章を書いているとネタには確かにされそうですが、阪神ファンではない私からすれば、悪い人ではないと考えてしまいましたね。

実際、阪神と結んだ高年俸についても契約破棄の際に4割が返金されて、契約金も「全額返上する」と申し出る(オーナーの久万から「正直ないい人だ」「契約金は返上しなくてよい」と言われ、お咎めなしになった)など、ネタが先行しすぎて人間性が疎かになっている部分もあるなと感じました。

まぁ、プロとして契約を全うし、成績を残せなかったのは紛れもない事実ですが。

ダン・ミセリ

契約球団年棒ポジション日本通算成績
読売ジャイアンツ年俸1億8千万円投手4試合 2回2/3 0勝2敗 防御率23.63

1990年にロイヤルズ入団。

1993年にパイレーツでメジャーに昇格すると中継ぎとして活躍。

12年間でパドレス、マーリンズ、アストロズなど9球団を渡り歩く。2004年にアストロズで74試合に登板した。

ミセリは元々、2004年にキャリアを終える予定だった。

だがクローザーの固定が長年の課題だった読売ジャイアンツ側の強い要望で引退を撤回し、2005年に巨人に入団した。

キャンプに合流後は当時の巨人・堀内監督はクローザーでの起用を明言するなど高評価を得る。しかしオープン戦では8試合で防御率5.63とシーズンへの不安を残す。
4月1日、レギュラーシーズン開幕戦(対広島)の9回表、巨人1点リードの場面で初登板。いきなりラロッカに一発を浴び、更に緒方孝市から勝ち越し2ランを打たれて敗戦投手となる。

5日の横浜戦、同点の12回裏に登板したミセリは1死1.3塁のピンチを作り、挙句多村仁(当時)にサヨナラヒットを打たれ2敗目。7日の横浜戦は巨人5点ビハインドの場面で登板。多村に今度はツーランを浴びるなど3失点で降板。

このミセリの惨状に目の当たりにした横浜ファンから、4月6日、巨人1点リード時の「ミセリコール」まで起きてしまった。

10日の中日戦では9回表、巨人10点ビハインドの場面で登板。ようやく無失点に抑えるもここまでだった。

戦力というレベルに達しておらず、さらに肩の違和感を訴えながら契約上二軍落ちが出来ないということで、4月19日に戦力外通告。

契約では年俸2億円近くだったが巨人が支払った給料は5250万円。

この解雇当日に浅草を訪れ人力車に乗るなどTOKYOを満喫したミセリは一週間ほど日本で観光した後帰国。これには同僚のシコースキー、ローズも思わず苦言を呈したほどだった。漫画家のやくみつる氏は「日本観光のオプションツアーとしてジャイアンツ体験入団があった」と皮肉った。

しかし、この1ヵ月後には、コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、さらに1ヵ月後には早々とメジャー昇格。
1勝2敗5ホールドとそれなりの成績を残したうえ、第1回WBCではイタリア代表(ミセリの父はイタリア人)に選出され、1試合のみながら1回を無失点2奪三振に抑える活躍を見せる。

2006年にはタンパベイ・デビルレイズと契約し、1勝2敗4セーブ6ホールドというリリーフとして申し分のない活躍をし、日本のファンを中心に「巨人時代は、巨人(あるいは日本野球界そのもの)をバカにして手を抜いていたのではないか」と悪し様に語られた。

2007年にはオープン戦で打たれてしまい開幕前に解雇。
その後、独立リーグに復帰したりしていたが、2009年を最後に完全に引退。

この選手もインパクトで選出です。

観光といわれてもしょうがないですね。

スティーブ・コックス

契約球団年棒ポジション日本通算成績
横浜ベイスターズ・移籍金100万ドル
・年俸275万ドル(当時の日本円で推定3億円~3億2,000万円)の3年契約(3年目は横浜側が選択権を持つオプション)
一塁手15試合 50打数10安打 1本塁打 7打点 0盗塁
打率.200 出塁率.298 長打率.280 OPS.578

1992年ドラフト5巡目指名でアスレチックスに入団。

1999年にデビルレイズでメジャー昇格すると以後2000~2002年の3年間は毎年100試合出場・2桁HRを記録。

2002年は148試合に出場し打率.252、16本塁打、72打点と活躍。

2002年12月9日、横浜ベイスターズは新外国人としてコックスをタイロン・ウッズとともに獲得したことを発表したほか、デビルレイズも翌12月10日に「コックスを横浜へ金銭トレードした」と発表した。

横浜は同年に貧打に悩まされてリーグ最下位に沈んでおり、新監督・山下大輔が左の強打者の獲得を熱望していた。また当初は同年限りでヤクルトスワローズを退団したロベルト・ペタジーニの獲得に動いていたが失敗したため、代わりにコックスを獲得した。

入団後、宜野湾春季キャンプに参加していた2月7日に走塁練習でスライディングした際に右膝外側半月板を損傷。

2月12日に半月板の一部を切除する手術を受け、当初のチームドクターの見立ては「術後2週間でランニングができ、4週間後には実戦復帰できるため開幕には間に合う」というもので、同年3月14日にはオープン戦のヤクルトスワローズ戦に出場していたが、手術で調整が遅れたことにより開幕一軍メンバーからは外れた。内視鏡手術後の回復が遅く、一軍昇格は5月14日だった。

一軍昇格を果たすも15試合でまたケガ。

同年に年俸5,000万円(自身の6分の1)で入団しながら大活躍を果たしたウッズとは完全に評価が逆転する結果になってしまった。

最終的な成績は15試合出場・10安打・1本塁打・7打点と「現役メジャーリーガー」としての期待を完全に裏切る結果に終わり、右膝の回復が思わしくなかったことからシーズン終了後の2003年11月28日に契約を2年残して解雇された。
これだけなら良くいる外れ外国人だがコックスが凄かったのはその契約。年俸275万ドルの3年契約(3年目は球団に選択権あり)という破格のもので、結局横浜は2年分の年俸と3年目契約破棄の代償金70万ドル、さらにデビルレイズへの移籍金100万ドルの計720万ドル(当時の為替相場でおよそ8億600万円)を支払うハメに。コックスは僅か15試合出場で大体7億円をゲットし、そのまま引退している。
ちなみに同期入団のタイロン・ウッズは年俸5000万だった。

ただ、ここからが他の助っ人外国人と違うところで、コックスと横浜の契約は2年契約を前提としたものだったため、コックスの代理人は翌2004年分の年俸支払いも要求した。

結局・横浜は2年契約分の年俸と3年目(2005年)の代償金も合わせて、総額で700万ドル以上を払うことになった。

解雇の理由としてチーム運営部長(肩書は当時)・笹川博は「中途半端な状態で置くと現場が起用法に困る」と述べたほか、球団社長・峰岸進も「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。また『毎日新聞』記者・仁瓶和弥はこの解雇劇を2003年12月4日東京夕刊記事にて「コックスはヒット1本3200万円と(同年のセ・リーグ)最下位・横浜の低迷を象徴するお荷物選手になってしまい、球団幹部も『不良債権処理』とこぼした」と表現した。

その後のコックスは、2004年はどこにも所属せず、同年12月24日に古巣・デビルレイズとマイナー契約したが、翌2005年シーズンはマイナーで19試合出場しただけで5月23日に解雇された。

よくいる他の助っ人と同じ感じのよく言う「給料泥棒」みたいな感じで終わらなかったのは、単純にその契約金額ですね。

僅か15試合出場で約7億円ですから球団はかなりの痛手だったでしょう。

ケビン・ユーキリス

契約球団年棒ポジション日本通算成績
東北楽天ゴールデンイーグルス年俸400万ドル+出来高最高額100万ドル
総額500万ドル(5億2000万円)
一塁手21試合 65打数14安打 1本塁打 11打点 0盗塁
打率.215 出塁率.342 長打率.323 OPS.665

2003年に「マネー・ボール」がアメリカでベストセラーとなり、著者のマイケル・ルイスはユーキリスを「四球のギリシャ神(The Greek God of Walks)」と命名し、有名となった選手であり、レッドソックスをワールドシリーズチャンピオンに導くなど、ボストンの英雄であるユーキリス。

2013年12月21日に東北楽天ゴールデンイーグルスが1年契約での獲得を発表する。

開幕戦から5番一塁手として出場、開幕2戦目の3月29日西武ドームでの西武戦で、6回表に菊池雄星からNPB初本塁打。右手首への死球などで数試合を欠場し、4月26日のオリックス戦で出場中に左かかとの痛みを訴え、翌27日に出場選手登録を抹消された。

抹消後の診察で、左足底筋腱炎を発症していることが判明し5月7日に故障箇所の再検査と治療を目的に、球団の承諾を得てアメリカへ帰国。

2004年ワールドシリーズを制した優勝メンバーが集まるフェンウェイパークでのイベントに、故障の治療のため一時帰国しているユーキリスも出席した。

その際、治療中の左かかとについて、「全治3カ月から6カ月」との見通しを明らかにした。
「個人差はあるが、医者は3~6カ月かかると言っている。治りさえすれば、すぐにも日本に戻りたいが、今は歩行でも痛みがあり、歩く以外は安静にして治療に専念している」と語り、練習再開は早くても夏場以降になる見込みで、長期離脱を示唆していたが、リハビリ中にアイス・バケツ・チャレンジに参加したりと結局、以後試合に出場することなく10月30日に現役引退を表明した。

この結末に、プロ野球ファンからは、テレビ番組の『YOUは何しに日本へ?』を捩って「ユークは何しにニッポンへ?」と揶揄されてしまった。

ユーキリスに関しては、完全に期待の目で見ていたのでその反動がすごかったですね。

MLBファンなら誰もが知っていた選手で、出塁率の高い新しい指数での野球を象徴していた選手でありその期待はかなりの大きさだったのですが、最後は引退してしまいました。

日本で現役を続けていれば、いい数字を残せた気はするので非常に残念です。

個人的にはアイス・バケツ・チャレンジに手を出した時点で見切りました。

失望感が大きかったということで名前をあげました。

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